冬の山陰に鹿野を訪れたのは、司馬遼太郎の「街道をゆく」に触発されたからである。鹿野が城下町であったとは。
「通りは水の底のようにしずかで、ときど京格子の町家や、白壁に腰板といった苗字帯刀身分の屋敷などがのこっている。ぜんたいにえもいえぬ気品をもった集落なのである」
戦国時代の天正9年(1581年)、出雲の出身で山中鹿乃介の門弟であった亀井茲矩(これのり)は、秀吉の鳥取城攻めの際に手柄を立て、1万3千石で鹿野城を与えられた。
四半世紀前に司馬遼太郎が「水の底よりしずか」と書いた城下町は、往時の余韻から目覚め、生気が戻りつつあった。
亀井茲矩は歴史上有名な人物ではない。が、鹿野の人々は、今なお「亀井さん」と、親しみと敬いの気持ちを込めて呼ぶ。かつての山城の下に内堀、外堀が豊かな水をたたえ、水鳥が遊ぶ。
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